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新たな時代におけるキリスト教学校の使命と連帯-いのちの輝きと平和を求めて-

一般社団法人キリスト教学校教育同盟 Association of Christian Schools in Japan Since 1910

Assocition of Christian School in Japna Since 1910

キリスト教学校教育バックナンバー

キリスト教Q&A
礼拝

堂本 陽子

 キリスト教学校では、毎日の学校生活は礼拝から始まります。また、様々な大切な時(入学式・卒業式、始業式・終業式など)にも必ず礼拝形式で行われます。キリスト教学校にとって、なくてはならない礼拝について、思いを新たに考えてみましょう。

Q1 なぜ、キリスト教の礼拝は日曜日にするのですか。

A 聖書によると、イエスは日曜日の朝早くに十字架の死から復活されたとあります。そのため、教会はイエスの復活を覚えて日曜日に共に集まり礼拝を守るようになりました。初期キリスト教信徒たちは、礼拝を守るため日曜日の仕事を休みました。日曜日が休日でなかった時代に仕事を休むことは大変なことでしたし、キリスト教が迫害されていた時代では、信徒であることが知られることで命の危険の恐れもありました。しかし、信徒たちは迫害の恐怖や苦難に負けず、イエスの復活を記念して、神を讃美し神に生かされる喜びを胸一杯にして礼拝を守ったのです。

 四世紀になると、ローマ帝国はキリスト教を公認し、礼拝を守るため日曜日を休日に定めました。キリスト教は日曜日が休日だから礼拝するのではなく、イエスが復活した日曜日だからこそ礼拝を捧げていたのであり、この思いが日曜日を休日とさせたのです。

Q2 礼拝といっても教派や学校の伝統などで違いがあるようですが、礼拝とはどういうものなのでしょうか。

A キリスト教会では、新年を迎えると新年礼拝や元旦祈祷会が行われます。私の奉職する学園でも全教職員が新年礼拝をもって一年を始めます。キリスト教にとって、礼拝はすべての生活の始まりであり中心であり土台なのです。英語の「礼拝」には、Service(神に仕える)、Worship(価値あるものに栄光を帰す)、Liturgy(皆で捧げる)の三つがあります。すなわち、礼拝とは「皆で共に集い神をほめたたえ神に仕える」ことなのです。礼拝の讃美歌・聖書朗読・祈祷・説教(奨励)・献金は、神の招きによって呼び集められた人びとが、神からの恵みに感謝し、共に祈りを捧げ、御言葉に聴き、神に応答する共同作業なのです。それぞれの教派や学校の伝統によって特色がありますが、簡単にいえば、礼拝とは「神との交わりの時間」といえるでしょう。イエスは「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18・20)と語りました。キリスト教学校はイエスの名のもとに建てられた学校ですから教職員も生徒学生も共に神に呼び集められた一人一人なのです。神に結び合わされた家族として「霊と真理をもって神との交わりに生きる」礼拝を捧げたいものです。

Q3 教育の現場である「学校」で行う礼拝の大切さとはなんでしょうか。

A 私の学校では、一月が近づくと卒業生が「成人式を礼拝形式で行いたい」と学校に帰ってきます。そんな彼らに「なぜ礼拝形式なのか」と聞くと、「チャペルは心が落ち着く、自分を見つめ直すことができる、悩んでいた時に聖書の御言葉に支えられた、お話に励まされた、讃美歌で元気が出た・・・」などの答えが返ってきました。彼らは、礼拝を通して「心の栄養」を受け取っていたようです。御言葉は、私たちの心に生きる力や支えや癒しを与えてくれるので、御言葉一つ一つが「命の種」と言えるでしょう。つまり、礼拝は、私たちの心に命の種が蒔かれる「種蒔き」の場なのです。

 ところで、文化Cultureの語源であるラテン語のCultは「礼拝」を意味します。本来、人間は神に照らし合わせて精神を耕すことによって人格形成がなされ文化が生まれていくというわけです。キリスト教学校における礼拝は、一人一人が神との交わりを通して心を耕し、生き生きと生きる源となる「種蒔き」の場であり、集う者が「共に生きる」共同体として導かれていく大切な意味と役割を担っているのだと思います。

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〈桜美林中学校・高等学校チャプレン〉

キリスト教学校教育 2007年1月号7面