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一般社団法人キリスト教学校教育同盟 一般社団法人キリスト教学校教育同盟

希望と喜びに生きる-新たな転換期に立つキリスト教学校-

一般社団法人キリスト教学校教育同盟 Association of Christian Schools in Japan Since 1910

Assocition of Christian School in Japna Since 1910

キリスト教学校教育バックナンバー

中高代表者協議会
教育基本法とキリスト教学校
- その改正法案を巡って -

深谷 松男

はじめに

 キリスト教に基づく人格教育というキリスト教学校の固有の建学の精神は、キリスト教学校の生命線であり、隣人愛に立って人間形成教育を進めることは、キリスト教学校の社会的存在意義の基である。もとより、キリスト教学校は、日本の学校制度によっているので、教育基本法その他の教育法制の適正な認識に立つことを要する。すなわち、建学の精神に照らして可能な範囲で、教育法制に則ってその教育を進める。進行中の教育基本法改正に対しても、憲法及び現行基本法に照らして評価しつつ、建学の精神に基づいてそれに対応する姿勢が肝腎である。

現行教育基本法の理念について

 憲法の原理的構造的主柱は基本的人権であり、それが憲法を最高法規たらしめているが、教育を受ける権利はこの基本的人権である。教育を受けることは、人間であるために、人生の基礎作りのため不可欠であり、この権利は人間に固有の権利として、世界的に保障されている(世界人権宣言二十六、児童権利条約二十八、二十九等)。それ故、教育と行政との間には、基本的に、教育を受ける権利の優位性、つまり教育の独立自主性の承認がなければならない。人格的行為としての教育の本質と教育を受ける権利の固有性に基づく。

現行基本法は、この理解に立って、憲法の基本理念である「個人の尊厳」を根本的教育理念とし、教育の基本的目的は個人としての「人格の完成を目指す」ことにあることを明確にしている(一条)。「人格の完成を目指す」とは、各人の個性に応じた諸能力の統一調和ある成長を遂げ、自由・自主の精神に立ち、他者の人格を尊重し、自律的に市民的責務を負う主体の形成を目指すことである。

現行法第一条は、その上で、教育の目的として「平和的な国家及び社会の形成者の育成云々」を掲げる。教育の目的は、まず、個人としての人格の完成が根本であり、この広い立場で育成された人間が、はじめて平和的な国家及び社会のよい形成者になるという認識が根底にある。

ところで、個人の尊厳の尊重とは「自己とすべての他者」の尊厳性の尊重であるから、利己的競争能力を高めることではなく、「人はなぜ個人として等しく尊厳なのか」の問いに答えうる揺るぎない人間観がそこに求められる。この点で、キリスト教学校は大きな社会的寄与をしてきた。個人の尊厳の理念をその根底から支えるキリスト教人間観に基づく教育だからである。

新基本法案の問題点

 上記のような認識に立って新教育基本法案を見るとき、問題点の中心は、法案第一条(教育の目的)が、現行第一条(目的)の中段「真理と正義を愛し~自主的精神に充ちた」を削除して、そこに「国及び社会の形成者として必要な資質を備えた」を入れることにより、教育とは国及び社会のための人材養成であるとの教育目的論を色濃く出したことである。

そして、この目的のために新たに教育の目標(二条)を掲げ、外形的徳目主義を前面に出しているのが、第一の問題点である。徳目は五群で、「・・・の態度を養う」との外形的な仕方で定められる。それは従来の学習指導要領(これは告示)の「道徳」の項目のすべてに及び、これに法的拘束力を与えるものである。

本来、道徳とは人格の内面に良心として宿り、自発的にそれを遵守するようになるところに意義があるもので、外形的「態度」に焦点を当てる教育では、真の良心の育成は歪む。これは、キリスト教学校にとっては重大な問題である。

また、現行法一条の「真理と正義を愛し、」は、この諸徳目の中で「真理を求める態度」と「正義と責任」の結び付けとに切り離されて、人格の完成にかかるその重要な意義を奪われ、さらに大事な「個人の価値をたっとび云々」は能力主義に結び付けられ、基本的人間観としてではなく、外形的態度養成の前提に過ぎなくされている。また、新法案では全体として公共の精神が強調されていて、人権は視野の外におかれ、個人の尊厳よりも集団主義的価値観が前面に出され、愛国心徳目につながっている。

新法案は、「教育が教師と子どもとの間の直接の人格的接触を通じ、子どもの個性に応じて弾力的に行われなければならず、そこに教師の自由な創意と工夫の余地が要請される」(最高裁旭川学テ事件判決)との教育観から離れて、むしろ、憲法及び現行法が厳しく退けた教育勅語と同質の外形的徳目教育中心である。

第二の大きな問題点は、教育行政につき、現行第十条一項に対応する新第十六条において、「教育の国民全体に対する直接責任」を削除し、教育はこの法律及び他の法律により行われるべきとして、教育行政の機構へと続け、さらに、第十七条で教育振興基本計画を政府が定めると展開し、直接責任の原則及び教育の自主・自律性の排除と教育における行政の優位を決定的にしていることである。教育基本法と教育振興基本計画が直結するこの構造は、教育振興計画が国会の審議を要せずに「政府」だけで策定できる(国会には報告で足りる)とし、また教育の諸条件整備という教育行政の枠がなくなり、教育内容にも及び得るという意味で、日本の教育は国策遂行のための教育へと大きく変貌する危険を孕んでいる。 こうして新法案は、「憲法の実現は根本において教育の力に待つ」とする現行法とは全く異質であり、憲法とも大きく乖離するものを含んでいる。

おわりに

 教育を政治に利用した歴史を反省し、そうではない普遍的真理に立つ教育をと目指して、現行法は制定された。改めて、信託された教育に仕える者の時代を見る目の確かさが問われる。キリスト教学校の創立者たちは、その信仰によりごく自然に国の法制をも越えた地平に立ち、日本社会に対する愛の行為としてキリスト教学校の基盤を作った。真に個人の尊厳に立つ教育である。キリスト教学校がその使命を遂行するには、国の法制に対してもその主体性を保持し続けることが肝要である。その意味で、学園礼拝が生命線である。

〈宮城学院院長〉

キリスト教学校教育 2007年1月号8面