loading

一般社団法人キリスト教学校教育同盟 一般社団法人キリスト教学校教育同盟

希望と喜びに生きる-新たな転換期に立つキリスト教学校-

一般社団法人キリスト教学校教育同盟 Association of Christian Schools in Japan Since 1910

Assocition of Christian School in Japna Since 1910

キリスト教学校教育バックナンバー

教研中央委員会発題要旨

キリスト教教育と教育基本法

倉松 功

一 前提

 わが国のキリスト教学校において、どのようなキリスト教教育をなすべきかについて、キリスト教学校教育同盟において統一理解は存在しない。それのみか、同盟所属の各法人の教育機関においてさえも特に大学レベルで、例えば「キリスト教による人格教育」という建学の精神に基づく教育目標に即した教育内容について、どれほどのコンセンサスがあるのであろうか。要するに、研究の自由と教育の目標に基づく拘束が明確に区別されているだろうか。さらに、一般市民の子弟に開かれた教育をしながら、キリスト教入門以外に市民の倫理・道徳について何を伝えてきたのであろうか。これらの問題が不明確なまま標記の問題について、本同盟が特定の立場に立つことは慎むべきであろう。

二 教育基本法

 わが国の国公私立すべての教育機関が教育基本法と(私立)学校教育法によって許可され設立されている。その教育基本法の記す教育目的・理念について、学校教育に関わる者は無関心であっても、無関係ではありえない。それでは、われわれはこれまでキリスト教学校の教育目的や授業内容において、とりわけ、キリスト教教育の実践において、どの程度教育基本法の理念・思想について論議しているのであろうか。このような問いを新教育基本法は投げかけた。それに対して、建学の精神の保持・発展について責任のある理事会やキリスト教教育担当者はまず答えねばなるまい。

三 キリスト教教育と教育基本法 

 キリスト教教育と教育基本法の接点の第一は「人間の尊厳」である。何故人間は、そしてキリスト教のみが特に人間の尊厳を主張するかについて、繰り返し説くことをわれわれは命じられ、委託されている、と思う者である(創1・26、28 マタイ18・5 同25・40、45 マルコ10・45など)。

 教育基本法がキリスト教教育に関わる第二は、教育の目的に謳う「人格の完成」(第一条)である。しかし、この二つについてさえわれわれはその聖書的、キリスト教的根拠を示し、証することにおいて、どれ程積極的であったであろうか。とりわけ、個々の人間の尊厳の故に、十戒や基本的人権がいかに重要な役割を担っているかについて、どれ程積極的であったであろうか。近・現代の国家、社会生活の根底にあり、政治の目的、政治の運用、政策の手段たる基本的人権とキリスト教との関係についてどれ程熱心であったであろうか。「人間の尊厳と基本的人権は不可侵である」ことを、ドイツ憲法は「信奉する(ジッヒ・ベケネン)」と記している。それほどにこの二つは宗教的性格をもったものなのである。しかし、それを繰り返し説き、語り、日常生活の中で、教育現場で実践することは容易でない課題であろう。

 新教育基本法に対する態度について、特定の神学の強要はもちろん、特定の考え方を強要すべきではない。同盟も各個キリスト教学校も、特定の神学と政治から自由な団体でなければならない。しかしキリスト教学校は、教育基本法の批判の前に、また公教育の責任の一端を担うものとして広く一般の倫理、道徳にも目を向け、語るべきである。他方そもそも、キリスト者の倫理はイエス・キリストへの個人の信仰に基づく服従にある。キリスト者のキリストへの服従の仕方は多様である。従ってある委員会で、あるいは教育同盟のある会合で、特定の状況判断や態度決定をし、それを同盟参加の各法人に賛同を促すことは、加盟や雇用契約の条件に反するし、キリスト者の自由を侵す信仰の専制主義(原理主義)になりかねない(ローマ13・8F ガラ5・1、13)。とはいえ、最小限以下の諸点については明確な意識を持っていなければならないし、それに基づいて行動しなければならないであろう。現代政治の目的と手法は具体的には基本的人権の尊重にある。また、私立学校は信教の自由、結社の自由の象徴である。それゆえ、それを守り、実現することに熱心でありたい。この世の政治は、十戒の第二の板(後半)を尊重し、その戒めの積極的肯定的内容を求めて外面的正義を維持しなければならない。消極的には戒めの禁止条項に反することを強制してはならない。それは積極的には基本的人権の尊重、自然法的なもの、一般的に善なるもの(良識)を重んずるという態度でもある(ピリピ4・8)。したがって、人間の基本的人権が侵害されているという理由で、抗議したり、抵抗したりすることはありうる。しかし、何が現実に賛同しうる正義か、何が基本的人権を侵している事態か、何が抗議したり、反対しなければならない事態かの判断は多様であり、相対的である。また、教育同盟も、個々のキリスト教学校も、集団として、特定の政党に加担したり、特定の政治的スローガンやアピール、訴えに、キリスト教的真理が実現されているかいないか、と考える思想団体でも、評論家の集団でもない。要するに、キリスト教教育共同体の政治的社会的判断の規準は、キリスト教教育がどこまで保証されているか、そして、神の創造と救いという神の愛の対象となった人間と被造物が現実にどうなっているか、ということについての個々人の判断の自由と信仰に基づく個人の自由な決断の尊重から出発しなければならないであろう。

〈東北学院学院長、同盟教研担当常任理事〉

キリスト教学校教育 2007年3月号7面