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一般社団法人キリスト教学校教育同盟 Association of Christian Schools in Japan Since 1910

Assocition of Christian School in Japna Since 1910

キリスト教学校教育バックナンバー

第95回総会 シンポジウム発題
キリスト教学校教育の本質とその具現化に向けて

湊 晶子

 私立大学が国立大学と最も大きく異なるところは、それぞれの私立大学が歴史的に建学の精神によって貫かれていることである。さらにキリスト教学校の場合は、キリスト教を基盤として教育が組み立てられていることに特質がある。この生命線を法人側がいかに位置づけるかによって、組織の進むべき方向は変わる。理事長、院長、学長、校長の責任は大きい。東京女子大学は小中高を持たない大学のみの教育機関であるので、今回の私の発題は大学を中心にさせていただく。

Ⅰ キリスト教学校教育の本質 ―信仰と学問

 プロテスタントキリスト教大学における「信仰と学問」の関係は、「エルサレムとアテネと何の関わりあらんや」というテルトゥリアヌス的対立関係でも、「哲学は神学の僕である」というトマス・アクイナス的二階建て関係でもなく、「キリスト教を基盤として自由に知的探求のできる」関係である。

 新渡戸稲造(東京女子大学初代学長)が『内観外望』「大学教育の使命」で、「学問の第一の目的は人の心をリベラライズ(自由)するといふこと、エマンシペイト(解放)することである」と述べた通りである。キリスト教を基盤とした知的探求により構築される人格形成が、キリスト教教育の使命である。

Ⅱ キリスト教の基盤の具現化に向けて

 建学の理念を堅持するために、少なくとも最高責任者(院長がいる場合は院長、いない場合は学長)のクリスチャン・コードは堅持すべきである。また日々の礼拝、宗教週間、クリスマス行事など大学の宗教教育の位置づけを明確に指し示すことも大切である。

 たとえ一〇パーセントに満たないキリスト教関係者であっても、キャンパスにおいてキリストのかおりを放つ者として毅然として存在することによって責任を全うすることが可能である。矢内原忠雄が新渡戸稲造に、「内村鑑三との相違」について尋ねた時の新渡戸の回答は、キャンパスで使命を果たそうとする者への励ましである。「内村の如く言葉をもって神学を語るものではない。人格からにじみ出る犠牲と奉仕の心をもって示す」と。私は日々の礼拝は公務のない限り毎日出席し、同じ席に座り、学生を全員クラスに送り出してから学長室に戻る様心がけている。このささやかな努力が実を結びつつある。

Ⅲ キリスト教学校教育の担い手の確保と育成

 方法論ではなく、リーダーの信仰的姿勢が大切である。評議員会、理事会は短い礼拝をもって始める。教授会は祈りをもって始める。例え反対があっても創立以来守られて来たこの姿勢は崩さない。本学では学長を委員長とする全学人事委員会が立ち上げられ、学部を越えた全学的見地から、年齢、性別、出身校、分野などを検討し人事を立ち上げる。キリスト者であることを条件にすると人材確保が困難になるので、学長面接で本学の教育理念を説明し、賛同していただけるかどうかを確認する。二〇〇二年に学長に就任以来、一人の教員が受洗まで導かれ、この七月にもう一人の教員が受洗される予定であることはほんとうに感謝である。

 学内のキリスト教諸活動はキリスト教センターで企画、実施されるが、委員会はキリスト者でない教員にも積極的に加わっていただいている。また定年退職される先生方にもチャペルで御自分の人生から学生にメッセージを語っていただき、「生きる」意味を共有出来るよう配慮している。キリスト教学校教育は、全学が一つになって重荷を共有した時成功すると思う。

〈東京女子大学学長〉

キリスト教学校教育 2007年7月号6面